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宗派の名称 | ご本山の 所在地 |
ご本山 | 概要 |
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浄土真宗本願寺派 | 京都府京都市 | 西本願寺 | 西本願寺(京都市下京区堀川通花屋町下ル)を本山とする。本願寺は京都東山の大谷に親鸞の遺骨を改葬した廟堂にはじまるが、その後、延暦寺僧徒や法華宗徒の攻撃、織田信長との争い(石山合戦)などによって変遷し、天正十九年(1591)十一世顕如の時に豊臣秀吉から京都西六条の現在地の寄進を受けて御影堂、阿弥陀堂が再建された。顕如没後、顕如の子教如(1558〜1614)と准如(1577〜1630)が本願寺の継承をめぐって対立。教如は慶長七年(1602)徳川家康から東六条に土地の寄進を受け別立した。以後准如が継承した本願寺を西本願寺と通称し、本願寺門徒は東西に分かれて所属する事となった。本願寺は顕如の時代に門跡(皇族の住する寺)に列せられて以来、院家・坊官の制によって事務を統括したが、一四世寂如(1651〜1725)の時期に制度が完備され、諸国に録所・触頭をおいて末寺を統括した。教学面では寛永十六年(1639)に学寮(後の学林)を開設。能化職をおいて教学にあたらせたが、「三業惑乱」が生じて能化職を廃止した。以後勧学が交代で講義にあたり、これが後に龍谷大学となる。 |
真宗大谷派 | 京都府京都市 | 東本願寺 | 東本願寺(京都市下京区烏丸通七条上ル)を本山とする(東本願寺派は別教団)。本願寺一二世となった教如(1558〜1614)は弟准如(1577〜1630)と本願寺の継承をめぐり対立し、慶長七年(1602)徳川家康から東六条に土地の寄進を受けいわゆる東本願寺を別立。(別立までの歴史は浄土真宗本願寺派の項目を参照のこと)。以後大谷派は教如の子孫が法主となって法灯を継ぐ。教学面では一五世常如(1641〜94)が学寮を設け後に大谷大学となる。昭和五十六年宗憲をあらため本願寺を真宗本廟と称し、門首制をしいた。その後真宗大谷派は俗に「お東紛争」と言われる大谷家と改革派の争いが続き、紆余曲折を経て1988年2月29日大谷光紹新門が浄土真宗東本願寺派を結成し大谷派から独立する事になる。 |
真宗高田派 | 三重県津市 | 専修寺 | 宗祖聖人親鸞の門弟真仏(1209〜58)を中心に下野高田(栃木県芳賀郡二宮町高田)の如来堂によった信徒を高田門徒といったのが始まり。如来堂は嘉禄元年(1225)宗祖が善光寺如来(長野善光寺の阿弥陀仏)を感得し、翌年これを本尊として開創したのを帰洛にあたって真仏に継承させたと伝えられる。その教線は東北地方から東海地方に広がり、初期真宗教団の主流をなした。十世真慧(1434〜1512)のときに北陸や伊勢に教線を伸ばし、伊勢国一身田町(三重県津市一身田町)に無量寿院を建立。十二世堯恵(1527〜1609)十三世堯真(1549〜1619)の頃専修寺と改めた。明治十年(1877)高田派と公称。なお、本山専修寺の堂宇は正保三年(1646)の大火で焼失し後に再建されたもの。御影堂、如来堂は重要文化財として指定され、所蔵している宗祖自筆の書簡、著作も国宝,重文に指定されている。また、高田門徒の故地、下野高田は下野本寺専修寺といい高田派本寺といわれる。 |
真宗興正寺派 | 京都府京都市 | 興正寺 | 興正寺(京都市下京区堀川通七条上ル)を本山とする。名称の由来は、文明一四年(1482)高田門徒の系統に属した仏光寺十四世経豪(1451〜92)が本願寺八世蓮如に帰依し、仏光寺のもともとの名称であった興正寺を用いて興正寺蓮教と名乗った事に由来する。仏光寺の末寺の多くも蓮教に従い、その一派は本願寺教団において特別の地位を保ち永禄十二年(1569)には脇門徒となって一門の筆頭としての地位を築くが、江戸時代初期頃から独立の動きを示し、文化八年(1811)幕府の裁定によって西本願寺の末寺となる。明治九年(1876)真宗四派の大教院分離に際して独立。 |
真宗佛光寺派 | 京都府京都市 | 佛光寺 | 仏光寺(京都市下京区高倉通仏光寺下ル)を本山とする。宗祖親鸞聖人の関東布教によって形成された高田門徒を始まりとし、初期の法脈は親鸞・真仏・源海・了海・誓海・明光とつづき第七世了源(1295〜1336)が山科の公称事を仏光寺と改める。以後、京都を中心に教線をひろめ、その教勢は本願寺を凌ぐ程であったが、これに対し本願寺三世覚如(1270〜1351)は『改邪鈔』を記して批判した。その後仏光寺十四世経豪(蓮教)(1451〜92)が本願寺の蓮如に帰依し多くの末寺も本願寺末寺となったが明治十四年(1881)仏光寺派を公称。なお、本山は秀吉の大仏建立地域と重なるため五条高倉の地に移転。その後二度火災に会い(1788,1864)、大師堂は明治十七年、本道は同三十一年に再建された。寺宝に木造聖徳太子孝養像・親鸞伝絵などがある。 |
真宗木辺派 | 滋賀県野洲市 | 錦織寺 | 滋賀県野洲郡中主町に本山錦織寺をおく。錦織寺の寺伝によれば、慈覚大師円仁(794〜864)が開創した毘沙門堂(天安堂)に関東から帰洛途上の宗祖親鸞聖人が止宿し『教行信証』を完成したと言う。また、錦織寺の名は暦仁元年(1238)天女が錦を織る瑞夢を四条天皇に奏上し、天皇から「天神護法錦織之寺」という勅額を受けた事によるとも言う。しかし、本願寺三世覚如の長男存覚(1290〜1373)の自伝『存覚一期記』に慈空を「本部開山大徳」としていることからみると、開創は南北朝の頃と考えられる。慈空は下総豊田庄(茨城県水海道市豊岡町付近)に起こった横曽根門徒の流れを汲む人で、のち存覚の子綱厳(慈観)(1334〜1419)が慈空の養嗣となって錦織寺を継いだ。真宗十派の中では高田門徒の系統が多いが、木辺派は唯一、横曽根門徒の系統に属する。そののち、蓮如によって本願寺教団が発展するに際し、錦織寺七世慈賢の子勝慧(1475〜1559)が蓮如に帰依するなど、門徒の多くが本願寺に吸収された。また錦織寺は天正年間(1573〜92)と元禄七年(1694)に焼け、幕府の援助によって復興した。 |
真宗出雲路派 | 福井県武生市 | 毫摂寺 | 本願寺三世覚如の高弟乗専(1295〜?)が京都出雲路(上京区寺町頭あたり)に毫摂寺を開設(現在本山は福井県武生市清水頭町)。毫摂寺は応仁の乱の頃、五世善幸(1310〜61)が越前横越(福井県鯖江市)の証誠寺(現在の山元派本山)をたよって同国山元に移転したがその後証誠寺と対立。慶長元年(1596)現在地に移る。元禄年間(1688〜1704)には天台宗青蓮院に属し、明治五年(1872)に本願寺所轄となった後同十一年独立。なお、兵庫県宝塚市小浜の毫摂寺は乗専の分流で本願寺派に属する。 |
真宗山元派 | 福井県鯖江市 | 證誠寺 | 本山証照寺の寺伝によれば、親鸞とその子、善鸞によって現在の証照寺付近(福井県鯖江市横越町)に布教され、善鸞の孫浄如のときに証照寺の寺号を賜って勅願寺となったとされるが、如道(如導)(1253〜1340)を中心に形成された三門徒(大町門徒)に属した道性(生没年不詳)が創建したものと考えられる。大町門徒の中で大きな勢力を持ったが、本願寺八世蓮如がその教義を否定したことや織田信長の越後攻略で打撃を受けた。江戸時代中期には天台宗聖護院の院家となったが、明治五年(1872)本願寺派(西本願寺)に属し、同十一年に真宗山元派として独立。 |
真宗誠照寺派 | 福井県鯖江市 | 誠照寺 | 本山誠照寺(福井県鯖江市下深江)は宗祖親鸞聖人が留錫した車道場に始まるとされているが、如道(如導)(1253〜1340)を中心に形成された三門徒に属した如覚(1250〜1311)の創建と考えられる。誠照寺ははじめ真照寺といい、誠照寺と改称されたのは永享九年(1437)。戦国時代に発展し、本願寺と対立した織田信長が助勢を求めた文書が残されている。その後、兵火をこうむるが、秀吉の安堵を得て再建。元禄六年(1693)日光の輪王寺(天台宗)に所属したが、明治十一年(1878)真宗誠照寺派として独立。 |
真宗三門徒派 | 福井県福井市 | 専照寺 | 如道(如導)(1253〜1340)が越前大町(福井市)に開創した専修寺を基点とした大町門徒(三門徒)にはじまる。如道の没後、専修時は二男如浄、三男了泉へと総称されたが、そのころ越前に進出しつつあった本願寺教団との関係で大町門徒は分裂。了泉の子、浄一は専修寺を弟の浄光に譲って足羽郡蕗野故中野に移り、専照寺を開いた。その後、専照寺は天正十年(1582)北荘(福井市)堀小町に移り、享保九年(1724)現在地福井市みのり町に移転。江戸時代中期には天台宗妙法院の所轄であったが、明治六年(1873)大谷派に属し同十一年に真宗三門徒派として独立。 |
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