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浄土真宗について

お念仏のみ教え>浄土真宗について

ご本山(西本願寺)について

 本願寺(ほんがんじ)は、浄土真宗本願寺派の本山で、その所在(京都市下京区堀川通花屋町下ル)する位置から、西本願寺ともいわれている。
 浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっている。

 もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展した。
 親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめた。しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものであったため、晩年の聖人のお世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳(いとく)を慕う東国(とうごく)の門弟(もんてい)達は寂莫(せきばく)の感を深めた。そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水(よしみず)の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置し遺骨を移した。 これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)である。
 この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものであったので、覚信尼が廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後覚信尼の子孫が門弟の了承を得て就任することになった。

 大谷廟堂の留守職は、覚信尼の後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が第3代に就任した。覚如上人は三代伝持(さんだいでんじ)の血脈(けちみゃく)を明らかにして本願寺を中心に門弟の集結を図った。
 三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然聖人から親鸞聖人へ、そして聖人の孫の如信(にょしん)上人へと伝えられたのであって、覚如上人は如信上人から教えを相伝(そうでん)したのであるから、法門の上からも留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明らかにしたものである。

 元亨(げんこう)元年(1321)ころに名前を本願寺公称し、覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置した。これを御影堂(ごえいどう)と阿弥陀堂(あみだどう)の両堂に別置するのは、第7代の存如(ぞんにょ)上人のときである。5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられた。

 室町時代中期に出られた第8代蓮如(れんにょ)上人は、長禄元年(1457)43歳の時、法灯(ほうとう)を父の存如上人から継承すると、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり平座(ひらざ)で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれた。また本尊(ほんぞん)を統一したり、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な伝道を展開されたので、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸に広まり、本願寺の興隆(こうりゅう)をみることになった。 しかし、上人の教化(きょうけ)は比叡山(ひえいざん)を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は比叡山衆徒(しゅと)によって破却(はきゃく)された。難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津の近松坊舎(ちかまつぼうしゃ)に安置して、文明3年(1471)に越前(福井県)吉崎(よしざき)に赴かれた。吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明5年には「正信偈(しょうしんげ)・和讃(わさん)」を開版(かいばん)し、朝夕のお勤めに制定された。

 上人の説かれる平等の教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちはついに武装して一揆(いっき)を起こすに至った。文明7年、上人は争いを鎮(しず)めようと吉崎を退去され、河内(大阪府)出口(でぐち)を中心に近畿を教化。文明10年(1478)には京都山科(やましな)に赴き本願寺の造営に着手、12年に念願の御影堂の再建を果たされ、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えられた。
 上人の教化によって、本願寺の教線は北海道から九州に至る全国に広まり多くの人に慕われたが、明応8年(1499)85歳で山科本願寺にて往生された。

 この後、山科本願寺は次第に発展したが、天文(てんぶん)元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われた。そこで蓮如上人が創建された大坂石山御坊(いしやまごぼう)に寺基(じき)を移し、両堂など寺内町を整備して発展の一途をたどった。

 しかし、天下統一を目指す織田信長が現れ、大きな社会勢力となっていた本願寺の勢力がその障害となったので、ついに元亀元年(1570)両者の間に戦端が開かれた。本願寺は、雑賀衆(さいかしゅう)をはじめとする門徒衆(もんとしゅう)とともに以来11年にわたる、いわゆる石山戦争を戦い抜いたが、各地の一揆勢も破れたため、仏法存続を旨として天正(てんしょう)8年(1580)信長と和議を結んだ。顕如(けんにょ)上人は、大坂石山本願寺を退去して紀伊(和歌山)鷺森(さぎのもり)に移られ、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移られた。

 天正19年(1591)秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄(ぶんろく)元年(1592)、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に際して、講和を受けいれた顕如上人の退去派と信長との徹底抗戦をとなえた教如上人の籠城派との対立が背景にあった。その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長(けいちょう)7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年、御堂を建立した。
 これが大谷派本願寺の起源で、この時から本願寺が西と東に分立したのである。

 これより先、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れた。翌年に御影堂の落成をみたものの、元和(げんな)3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失した。翌年阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永(かんえい)13年(1636)に御影堂が再建された。このころ対面所などの書院や飛雲閣(ひうんかく)、唐門(からもん)が整備された。ところが元和4年に建立された阿弥陀堂は仮御堂であったので、宝暦(ほうれき)10年(1760)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本願寺の偉容が整備されたのである。


真宗十派について

宗派の名称   ご本山の
所在地
ご本山   概要
 浄土真宗本願寺派  京都府京都市  西本願寺  西本願寺(京都市下京区堀川通花屋町下ル)を本山とする。本願寺は京都東山の大谷に親鸞の遺骨を改葬した廟堂にはじまるが、その後、延暦寺僧徒や法華宗徒の攻撃、織田信長との争い(石山合戦)などによって変遷し、天正十九年(1591)十一世顕如の時に豊臣秀吉から京都西六条の現在地の寄進を受けて御影堂、阿弥陀堂が再建された。顕如没後、顕如の子教如(1558〜1614)と准如(1577〜1630)が本願寺の継承をめぐって対立。教如は慶長七年(1602)徳川家康から東六条に土地の寄進を受け別立した。以後准如が継承した本願寺を西本願寺と通称し、本願寺門徒は東西に分かれて所属する事となった。本願寺は顕如の時代に門跡(皇族の住する寺)に列せられて以来、院家・坊官の制によって事務を統括したが、一四世寂如(1651〜1725)の時期に制度が完備され、諸国に録所・触頭をおいて末寺を統括した。教学面では寛永十六年(1639)に学寮(後の学林)を開設。能化職をおいて教学にあたらせたが、「三業惑乱」が生じて能化職を廃止した。以後勧学が交代で講義にあたり、これが後に龍谷大学となる。
 真宗大谷派  京都府京都市  東本願寺  東本願寺(京都市下京区烏丸通七条上ル)を本山とする(東本願寺派は別教団)。本願寺一二世となった教如(1558〜1614)は弟准如(1577〜1630)と本願寺の継承をめぐり対立し、慶長七年(1602)徳川家康から東六条に土地の寄進を受けいわゆる東本願寺を別立。(別立までの歴史は浄土真宗本願寺派の項目を参照のこと)。以後大谷派は教如の子孫が法主となって法灯を継ぐ。教学面では一五世常如(1641〜94)が学寮を設け後に大谷大学となる。昭和五十六年宗憲をあらため本願寺を真宗本廟と称し、門首制をしいた。その後真宗大谷派は俗に「お東紛争」と言われる大谷家と改革派の争いが続き、紆余曲折を経て1988年2月29日大谷光紹新門が浄土真宗東本願寺派を結成し大谷派から独立する事になる。
 真宗高田派  三重県津市  専修寺  宗祖聖人親鸞の門弟真仏(1209〜58)を中心に下野高田(栃木県芳賀郡二宮町高田)の如来堂によった信徒を高田門徒といったのが始まり。如来堂は嘉禄元年(1225)宗祖が善光寺如来(長野善光寺の阿弥陀仏)を感得し、翌年これを本尊として開創したのを帰洛にあたって真仏に継承させたと伝えられる。その教線は東北地方から東海地方に広がり、初期真宗教団の主流をなした。十世真慧(1434〜1512)のときに北陸や伊勢に教線を伸ばし、伊勢国一身田町(三重県津市一身田町)に無量寿院を建立。十二世堯恵(1527〜1609)十三世堯真(1549〜1619)の頃専修寺と改めた。明治十年(1877)高田派と公称。なお、本山専修寺の堂宇は正保三年(1646)の大火で焼失し後に再建されたもの。御影堂、如来堂は重要文化財として指定され、所蔵している宗祖自筆の書簡、著作も国宝,重文に指定されている。また、高田門徒の故地、下野高田は下野本寺専修寺といい高田派本寺といわれる。
 真宗興正寺派  京都府京都市  興正寺  興正寺(京都市下京区堀川通七条上ル)を本山とする。名称の由来は、文明一四年(1482)高田門徒の系統に属した仏光寺十四世経豪(1451〜92)が本願寺八世蓮如に帰依し、仏光寺のもともとの名称であった興正寺を用いて興正寺蓮教と名乗った事に由来する。仏光寺の末寺の多くも蓮教に従い、その一派は本願寺教団において特別の地位を保ち永禄十二年(1569)には脇門徒となって一門の筆頭としての地位を築くが、江戸時代初期頃から独立の動きを示し、文化八年(1811)幕府の裁定によって西本願寺の末寺となる。明治九年(1876)真宗四派の大教院分離に際して独立。
 真宗佛光寺派  京都府京都市  佛光寺  仏光寺(京都市下京区高倉通仏光寺下ル)を本山とする。宗祖親鸞聖人の関東布教によって形成された高田門徒を始まりとし、初期の法脈は親鸞・真仏・源海・了海・誓海・明光とつづき第七世了源(1295〜1336)が山科の公称事を仏光寺と改める。以後、京都を中心に教線をひろめ、その教勢は本願寺を凌ぐ程であったが、これに対し本願寺三世覚如(1270〜1351)は『改邪鈔』を記して批判した。その後仏光寺十四世経豪(蓮教)(1451〜92)が本願寺の蓮如に帰依し多くの末寺も本願寺末寺となったが明治十四年(1881)仏光寺派を公称。なお、本山は秀吉の大仏建立地域と重なるため五条高倉の地に移転。その後二度火災に会い(1788,1864)、大師堂は明治十七年、本道は同三十一年に再建された。寺宝に木造聖徳太子孝養像・親鸞伝絵などがある。
 真宗木辺派  滋賀県野洲市  錦織寺  滋賀県野洲郡中主町に本山錦織寺をおく。錦織寺の寺伝によれば、慈覚大師円仁(794〜864)が開創した毘沙門堂(天安堂)に関東から帰洛途上の宗祖親鸞聖人が止宿し『教行信証』を完成したと言う。また、錦織寺の名は暦仁元年(1238)天女が錦を織る瑞夢を四条天皇に奏上し、天皇から「天神護法錦織之寺」という勅額を受けた事によるとも言う。しかし、本願寺三世覚如の長男存覚(1290〜1373)の自伝『存覚一期記』に慈空を「本部開山大徳」としていることからみると、開創は南北朝の頃と考えられる。慈空は下総豊田庄(茨城県水海道市豊岡町付近)に起こった横曽根門徒の流れを汲む人で、のち存覚の子綱厳(慈観)(1334〜1419)が慈空の養嗣となって錦織寺を継いだ。真宗十派の中では高田門徒の系統が多いが、木辺派は唯一、横曽根門徒の系統に属する。そののち、蓮如によって本願寺教団が発展するに際し、錦織寺七世慈賢の子勝慧(1475〜1559)が蓮如に帰依するなど、門徒の多くが本願寺に吸収された。また錦織寺は天正年間(1573〜92)と元禄七年(1694)に焼け、幕府の援助によって復興した。
 真宗出雲路派  福井県武生市  毫摂寺 本願寺三世覚如の高弟乗専(1295〜?)が京都出雲路(上京区寺町頭あたり)に毫摂寺を開設(現在本山は福井県武生市清水頭町)。毫摂寺は応仁の乱の頃、五世善幸(1310〜61)が越前横越(福井県鯖江市)の証誠寺(現在の山元派本山)をたよって同国山元に移転したがその後証誠寺と対立。慶長元年(1596)現在地に移る。元禄年間(1688〜1704)には天台宗青蓮院に属し、明治五年(1872)に本願寺所轄となった後同十一年独立。なお、兵庫県宝塚市小浜の毫摂寺は乗専の分流で本願寺派に属する。
 真宗山元派  福井県鯖江市  證誠寺  本山証照寺の寺伝によれば、親鸞とその子、善鸞によって現在の証照寺付近(福井県鯖江市横越町)に布教され、善鸞の孫浄如のときに証照寺の寺号を賜って勅願寺となったとされるが、如道(如導)(1253〜1340)を中心に形成された三門徒(大町門徒)に属した道性(生没年不詳)が創建したものと考えられる。大町門徒の中で大きな勢力を持ったが、本願寺八世蓮如がその教義を否定したことや織田信長の越後攻略で打撃を受けた。江戸時代中期には天台宗聖護院の院家となったが、明治五年(1872)本願寺派(西本願寺)に属し、同十一年に真宗山元派として独立。
 真宗誠照寺派  福井県鯖江市  誠照寺  本山誠照寺(福井県鯖江市下深江)は宗祖親鸞聖人が留錫した車道場に始まるとされているが、如道(如導)(1253〜1340)を中心に形成された三門徒に属した如覚(1250〜1311)の創建と考えられる。誠照寺ははじめ真照寺といい、誠照寺と改称されたのは永享九年(1437)。戦国時代に発展し、本願寺と対立した織田信長が助勢を求めた文書が残されている。その後、兵火をこうむるが、秀吉の安堵を得て再建。元禄六年(1693)日光の輪王寺(天台宗)に所属したが、明治十一年(1878)真宗誠照寺派として独立。
 真宗三門徒派  福井県福井市  専照寺  如道(如導)(1253〜1340)が越前大町(福井市)に開創した専修寺を基点とした大町門徒(三門徒)にはじまる。如道の没後、専修時は二男如浄、三男了泉へと総称されたが、そのころ越前に進出しつつあった本願寺教団との関係で大町門徒は分裂。了泉の子、浄一は専修寺を弟の浄光に譲って足羽郡蕗野故中野に移り、専照寺を開いた。その後、専照寺は天正十年(1582)北荘(福井市)堀小町に移り、享保九年(1724)現在地福井市みのり町に移転。江戸時代中期には天台宗妙法院の所轄であったが、明治六年(1873)大谷派に属し同十一年に真宗三門徒派として独立。

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浄土真宗本願寺派
含暉山稱名寺
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